子供とAIのお話

執筆の経緯

エゴサーチができないのでむしゃくしゃしたの一言に尽きます

「おばけ」で検索したら一般名詞のおばけが出て来ます(私が悪い)

おばけさんかわいいという言及をネットから探したいので仕方がなくTwitterのIDの方で検索すると3月にバズったツイートばかりが出てきます忌々しい

 

確かに結構興味深い内容ですが、半分寝ながら書いた雑な文章で読みづらいという上に何が興味深いポイントなのか伝わってる人少なそうなので少し補足します

 

問題のツイート

  3月19日

 

弟子の甥っ子6歳が将棋めちゃくちゃ強くてなかなか勝てなかったらしく、理由を調べたら将棋アプリで待ったをかけまくってAIが導き出す場面ごとの最善手を直感的に覚えて読みあいではなく学習に基づく勘で戦っていたそうで、なるほど機械学習の再輸入なんてできるのかと新世代の子供の可能性にびびる

 

 

2万RT超えてて気持ちが悪い

 

申し訳ないポイント

なんか棋士界隈っぽく受け取られかねませんが、全然関係ナッシングです

「弟子」というのは特定の友人のあだ名です。まあ、あだ名というか、弟子ですが

私はそもそも将棋ルール知ってるか怪しいかぐらいですし、弟子も将棋関係者ではないですし、弟子の甥っ子も全然棋士を目指してるとかではないです(そこは確信できないけど)

ただ弟子は学者家系で、親戚の子供との遊びもちょっと知的なたしなみだったりします

 

という感じで

 

まったり少し話していきましょうか

 

高度な理論を子供が模倣する謎

おそらくこの日、弟子と食事をしながら音楽の話などをしていた気がします

私はしゃぶしゃぶセット野菜抜きを食べてました(かわいいアピールしていく)

クラシック音楽のちょっとした有名人としてアレクサンドル・スクリャービンという作曲家がいます

音を聴くと色彩を連想する共感覚保有者だったり、神秘主義に没頭したりと色々変な方向に走った人ですが、特にピアノ愛好家などの間では隠れた人気作曲家だったりします

実際楽曲も年をとるにつれて不思議な世界観になっていき、完全なデタラメではないのですが、理論的に分析しようとすると非常に難解な音楽を構築していきます

彼の息子にジュリアン・スクリャービンという人物がいて11歳にして亡くなっているのですが、作風が晩年のアレクサンドル・スクリャービンのそれを引き継いでいます

子供がそんな神秘主義とかに没頭して複雑な音楽作っていった人の晩年の作風を模倣するって気味が悪いが本人はどこまで何を理解して感じていたのだろうなどというお話をしていたのです

こんな感じの文脈で出てきたお話だった気がします

まあ潜在的なトリガーだけどあまり関係ないですが、そんな感じの会話の空気感だけつかんでください

かわいいでしょ

 

甥っ子とのエピソード

弟子は思いついたかのように甥っ子の話をしました

最近将棋にハマっていて、甥っ子の相手をするのに将棋をしてみたのだけどなかなか勝てないどころか負け越してしまうと

特に先読みとかしてくるわけでもないのになぜそんな強いのか学習方法を探っていくとAIに待ったをかけて感覚で何かを覚えて指しているっぽいとのこと

 

ここでとても興味深いと思ったわけですが

先読み出来てないなら本末転倒じゃないかという反応などあったので、いや、これは何百手先を読むよりある意味興味深いのだということの説明必要なのでは

となりました

まあ脳やAIに詳しくないのであまり深入りはしませんが

 

感覚で覚えるということの例

あまり将棋と近くない意味で良い例ではないかもしれませんが

身体運動を考えてみましょう

サッカーが上手な人は数十メートル先から飛んできたパスに対して、次のプレーに有利になりそうな好きな場所にボールを落とすことが出来ます。シュートを打ちやすい位置やドリブルを始めやすい位置など

これってかなり高度な高度な身体運動をしていますよね

しかも飛んでくるボールは毎回角度も速度も回転も違う

別にこの時飛翔体の放物線や回転を運動を数式に落とし込んで自分の靴の反発係数がいくらで、そのためにはどのような速度で足を引っ込めて・・など考えてませんよね

というか考える頭脳ある人、ほとんど存在しなさそうですよね

どうするかというと何度も何度も似たようなシチュエーションで練習してボールのタッチの感覚を覚えてなんとなくその絶妙な力加減を学習しているわけです

おそらく一連の動作を物理学的に分析したらすごく高度なことをしてるのでしょうが、感覚で調整して身につけるのが一番の近道です

 

将棋において先読みや定石は必須なのか

将棋の話に戻りましょう

とりあえず将棋で勝つことを目的としましょう

原理的には

・ルールに反しない手を打ち続けること

・最終的に勝利すること

これだけ満たせばゲーム的には何のケチもなく勝ちですよね

極論を言えば何も考えずに適当に指しててもルール的に勝てば勝ちなんです

理解してないテストで適当にマークシートつけて満点とっても満点は満点みたいなもんですが、将棋は別に理解の確認が前提にあるわけではないのでまさに勝てばいい

ただ勝負に勝つのはどちらかなので、相手よりも勝利に至る有利な手を打つことが求められ、有利な手とは何かを考えていく手段として、人間の頭でも考えれば出来ること

例えば先を読むことや、定石を学ぶことなど理論的な話が出てくるのです

別に目的を果たすためなら占いでも何でも勝率をあげる手の打ち方があればそれを選んでもいいわけで、とはいってもそんなものあるのか、と人間の頭ではなかなか想像できないわけです

 

コンピューター的な発想

ただ、コンピューターはこれに対してもっと泥臭い方法を取ることができます

とある場面において取れる選択肢が100個あるとして、それぞれをとった場合最終的な勝率はどれだけなのか、のような気の遠くなるようなことを延々と記録していけます

場面Aにおいては15番目の選択肢を選ぶと将来の勝率が一番高くなる、場面Bでは43番目の選択肢を選ぶと(以下略

人間がやると気が遠くなりますが、コンピューターは人間の比じゃない量の手数、計算をこなせるのでこういうのを記憶していけます

 

どうでしょう、これが出来るなら別に駆け引きとかしなくても勝利に近く手を打つ一つの指標になりませんか

いわゆる論理的に筋道立てた戦略とどちらが強いかはやってみないとわからない領域ですよね

 

コンピュータの手法を真似てさらに学習する

さて、コンピューターが場面ごとに勝率が高くなる手を覚えて、それを人間がひとつひとつ覚えていけばいいのですが、考えられる「場面」とやらは実際記憶できる数のものではないので、全暗記はちょっと現実的じゃないでしょう

類似した場面では類似した手法は有効なのか、など覚えられた情報から色々試していって精度を上げていくことができます

サッカーボールのコントロールを繰り返して調整して学んでいくのと似てますよね

 

将棋に勝つのにはいわゆる論理的に考えていく能力が高ければ高い方が勝利のために有効である

というどう考えても常識っぽかったものが

論理的に考える能力は別に必要なくて、野生の能力に近いなんとなく覚えてパターンを学習していく能力の方が勝利のためには有効かもしれない

という風に予想外の方向に覆るかもしれない

 

ただ、元となるパターンは人間の営みだけでは得られない情報で、コンピューターがものすごい量の計算を行って導出する

そして人間はこれを学習のタネとすることで論理的に考えるルートよりも勝利という目的により手軽に近づく道を手に入れる

 

さてこうなるとコンピューターが提供するデータによって人間が何かしらの目的を達成するために必要とする頭の使い方の種類が全く変わってしまうかもね

実は昔からそういう頭の使い方してた天才もいたのかもね

という感じのお話です

 

まとめ

どうでもいいのでエゴサでAI語ってる胡散臭い人じゃなくてかわいい人というのが出てくるようになりたいのです

その目的のためにこのブログはあまり意味をなさないというのはわかっています

わかっていてもやってしまう

これ、かわいいんじゃないでしょうか

 

 

 

 

 

 

 

 

美味しいものを食べてこその人生なのです

まず本記事の方向性

みなさんアニメを見て泣いたことがあるでしょうか

私は最近けものフレンズをみてアホほど泣きました

成人後の涙の半数を持っていかれるぐらい泣きました

終盤で泣いた方はたくさんいると思いますが、私が最初に涙を流したのは7話の最後のシーン、ハカセお見送りの言葉でした

それが本記事のタイトルです

座右の銘にしたいほどですが、それほど響いてない人も結構いるようなので何とか魅力を伝えたいと思いまして、久しぶりにブログというツールを使ってみるのです

 

まずシンプルに言葉のチョイスが思わず唸るほどに巧妙なフレーズだと思うのですが

言語学的な観点から述べれるほど日本語のことよくわかっていない上に、出来たとしてもおそらくマニアック過ぎる展開になるであろうことが想像されるのでやりません

安心してください

現実世界とジャパリパーク観で揺れ動く自分の内面のお話として書いていきます

 

けものフレンズという作品の表現の特性

さて、けものフレンズという作品は表現手法としては色々と独特なところがあり、初見の際は猟奇的であるとさえ感じました。一話を冷静なアニメ鑑賞のテンションで乗り切れた猛者は少ないのではないでしょうか

しかし落ち着いて鑑賞すると各シーンが持つ情報量が絶妙なラインに設定されていることがすぐにわかり、これは新規的な技巧を用いて表現でありながらも非常に丁寧

トーリーの表現と、視聴者に求める自発性のバランスが不気味なほどにいい按配となっていることに驚かされ、次第に作品に魅せられていくようになりました

問いといっても作品のテーマは?これは何の伏線?どういう世界観?先の展開はどうなる?といった作品自体への考察をすることに加えて

人間とは?自分の生き方とは?などといった現実世界の大きすぎてかえって考えることのなかった問題も提起されてきます。なんせ動物全体が扱われているわけなので

 

製作陣にとって一つ一つの問いに対して明確な答えが設定されているのかどうかは私の知るところではありませんが、視聴者がこういった問いを内に生み続けていくことが出来るように意識して作っていたことは間違いないかと思います

 

いちいちそんなことを考えなくても作品世界の優しさに触れているだけで十分に楽しめるように作られているという側面があることも念のため記しておきます

 

一旦落ち着こうか

12話を通した表現の素晴らしさを全て語るとキリがないので

「美味しいものを食べてこその人生なのです」で涙を流すに至るまでの思考に絞ってまとめていきます

 

現実での対価を求める文化への疲れ

私は現実世界に関して疲れている人間でして、特に苦手な概念として「対価」というものが挙げられます

貨幣経済そのものへの言及は長くなりそうなので割愛しますが、何かをしてもらうと何かお返しをしないといけないという現代文化全体の根底にある、この人格を行為によって個として分断する発想がとても苦手なのです

困っている人がいれば助けたいという理由だけで助けたいですし、逆もまた然りでなのですが、そうやって世界が回ることはなく、見返りというものを前提として人と人とが距離を保ち駆け引きをするこの世界で純粋な気持ちだけを抱えて生きていくことはいかに難しいかというのに日々息苦しい思いをしています

 

ジャパリパークの住人の無償の行動原理

 

ジャパリパークの住人は、現実世界と照らし合わせると信じられないほどお人好しです

3話あたりまで見ることで彼女たちの行動原理に居心地の良さを感じるようになりました

かばんちゃんの正体を知るのを手伝うために優しく見守ってついてきてくれるサーバルちゃんはもちろん、他のフレンズたちも見返りを求めないというか見返りという考え自体がなく、面倒なことなどにとことん付き合ってくれます

2話の時点でカワウソとジャガーが何でこんな面倒なこと手伝ってくれるんだと違和感を覚えましたが、3話になる頃にはそれが当たり前の世界として受け入れられてきました

頼まれたから、困っている子の助けになりたいから、あるいはそんな考えすらないのではないか、という動機でフレンズたちが自由に相互作用を起こしていく

この世界いいなぁ・・としみじみ思い、見ているだけで癒されるようになりました

1話のカバの「ジャパリパークの掟は一人で生きること」という忠告の不穏さが少し頭の片隅に残っていて、微妙な引っかかりの感覚があったことも述べておきましょう(この不安の消失は最終回までに見事にグラデーションを描きますが割愛)

 

ジャパリパークに存在する対価の概念の気配

知恵者かばんが人類の英知を発揮していく展開の中、4話ではツチノコというおそらくそれ以上の知恵者と思われるUMAが登場します

かばんちゃんの英知はジャパリパークにおいて超越的なものではなく、自主的に文明が営まれていることが提示されるのは7話以降の後半になるのですが、この4話ではUMA、地下迷宮という幻想的なパーツを用いることでストーリーのメインを支配しきらずに部分的に強い知恵を登場させたのがとても上手いなと思うところであります

4話ではツチノコが遺跡のジャパリコインを見て興奮するというシーンがあります

そして明確に通貨という言葉を用いており、さらに「ジャパリマンのように・・」とジャパリマンが現在の通貨として機能しているという可能性をほのめかします

トーリーとして4話での最大の衝撃は、それまで薄々示されていた人類の絶滅の可能性を明言したところにありますが、人類なしでよろしくやっている優しい世界で通貨が存在するのか?というのは少し引っかかる材料でした

 

そして次の5話において、ビーバーが木材をハカセとのジャパリマン取引で手に入れたことをボソッとですが明言した上に、分業という概念がかばんちゃんによってもたらされます

不穏な4話の後に、何事もなかったかのような日常の5話とされていますが、個人的にもっとも不穏な空気を感じてしまったのはこの5話でした

交換取引が存在する上に、分業という、場合によっては相手に強制力を働かせてしまう制度が持ち込まれたということでフレンズたちが自由に生きている世界に現代的な人間社会がもたらされてしまうのではないかというのが嫌で仕方がありませんでした

しかもこの時点では話全体がまだ前半であり、話ごとのお約束のパターンは人格は持つけど低レベルな知恵しか持たないフレンズに対して明らかに人間であるかばんちゃんが人類の英知を授けて問題を解決していくというものであったことから、かばんちゃんがもたらすものは英知であり災いではないのかと、強く懸念してしまいました

 

最高の知恵者の登場と求められる対価

6話も色々ありますが、今回のテーマではないので一気に7話まで飛びます

ハカセかわいい

ハカセと助手の登場はジャパリパークで権力と高度な知恵を持つものの登場であり、かばんちゃんが知恵の象徴であったという側面がここから薄れていきます

そもそもかばんちゃんが人であることを理解するのに12話を使うものだと想像していた人間にとっては7話で図書館に到達した時点で色々脳内の世界観チェンジを迫られたことでしょう、なつかしい

 

ハカセはかばんちゃんが何の動物か教えてあげるので、代わりに料理をしろと命じます

これは完全に知恵者による対価を求める発想です

そして人であると教えた後に副賞としてPPPのライブチケットをもらいます

これはハカセと助手がライブ設営に協力した見返りとしてもらったものだと言います

人間社会的な営みがジャパリパークにおいては行われてしまうのではという嫌な予感どころか、もうすでに行われているということが明らかになったのです

でもハカセかわいいし言動からも社会性を感じるものはあまり出てこず、不快感を催すものではありませんでしたが

今まで感じていた不穏な気持ちは何だったのだろう、色々考えながら彼女たちの会話を眺めているうちに例のシーンにたどり着くわけです

 

美味しいものを食べてこその人生なのです

ハカセは見送りの時に、文字が読める子だから料理させてみたのであって、他のフレンズが来た時は何の動物か無償で教えてあげているとあっさり白状します

要するに何かしないと教えてあげないのではなく、ただ料理を食べてみたかったチャンスを使ってみただけということです

ここで見ている側の気持ちとしてひとつの転換点があった気がします

 

ハカセたちはヒトの近くにはよくセルリアンがいたと聞くので道中をつけること、セルリアンを見かけたらさっさと逃げることを教え

作中初めての笑顔で「美味しいものを食べてこその人生なのです」と助言するのです

この瞬間、何で自分はこんなに簡単なことを忘れて生きていたのだろうと、ハッと気づかされた感覚になりました

ハカセにとっては対価を求めることは、それを満たすことによって初めて相手の権利や人格を認める類のものではなく、ただ単にある手段の一つでしかない

相手や自分を縛ることで何かを律することが目的なのではなく、楽しく自由に生きることのためがハカセの行動原理なのです

つまらない遠慮の心に押し潰されもせず、純粋におしいものが食べたい、食べようと思える、そうやって生きていこうとすることができる

 

それは自分にとってだって当てはめられることじゃないのだろうか

世界がガチガチに固まっていて、根本的にぶっ壊さないとどうしようもないと思うほどに悲観していたけれど、別にそれほどの大それたことではない

確かに世界は醜いが、必要以上に勝手に自分の心を押しつぶしていたのではないのだろうか

そうだ、美味しいものを食べてこその人生なのだ

世界は自由なんだ

誰に何と言われようと苦しむ必要などないのだ

そう気付いた時、自分を苦しめていた心の中の自分の苦しそうな姿がふと頭の中をよぎり、次の瞬間に安堵の表情に変わりました

「ああつらかったんだね」そう思いながらひとりでボロボロ泣いていました

 

あとがき

つらつらと書いたので自分でも何を書いたのか覚えてないです

今回は対価を軸に書いてみましたが、対価の概念がない世界を描くのではなく対価が個を縛り付けない世界を描くことでより安心感を出してくれていますよね

とにかく所作の一つ取るだけでこれだけでこれほどに感じ入るものがある作品でした

最終回まで繰り返し見ることで世界に今まで自分が知らなかった光が見えたりもしました

良い作品です(こなみ)